清正公の御事績
- 城郭建築の名手
- 築城名人として名高い清正公。
その築城技術をもって熊本城をはじめ、江戸城・名古屋城など数々の名城の普請に携わられました。「武者返し」をはじめとする石垣積み等の清正公独自の築城技術は、現在も目を見張るものがあります。
熊本城は西南戦争の折に激戦地となりますが、西郷隆盛率いる薩軍の軍勢は、熊本城に籠城する政府軍を遂には攻め落とすことが出来ませんでした。西郷隆盛が「私は官軍(政府軍)に負けたのではない。清正公に負けたのだ。(意訳)」と最後に口にしたといわれます。熊本城は大砲等を用いる近代戦にも耐えた稀有な城郭であるともいえるでしょう。
- 土木治水干拓事業~水の国 熊本の発展へ
- 清正公は天正16年(1588)清正公肥後入国後、肥後国を土木治水の発展により豊かにしたことでも有名です。入国当時、菊池川・白川・緑川・球磨川の四大河川の洪水により肥後国は荒れ果てていました。この状況を打開したのは、清正公の秀でた知識と采配によるものでありました。治水とかんがい、合わせて干拓事業を徹底的に行われたことにより、農業生産力が飛躍的に上昇、藩の経済基盤を作り上げられました。
特に現在でも残るはなぐり井手や、斜め堰・石はね等の技術は、現在でも水利遺産として遺され、その技術は語り継がれています。
様々な水利の充実に伴う農業生産の拡充により、長く地下水資源が涵養され、現在でも熊本は「水の国」ともいわれるほど水資源が豊富です。現在の熊本を生きる私たちもその恩恵を受けているといえるでしょう。
- 忠義を尽くす
- 天正20(1592)年に始まった朝鮮出兵(文禄の役)では武断派の加藤清正公、福島正則らと和議を主張する小西行長、石田三成らの意見が衝突。清正公は小西、石田からその独断専行を訴えられ、秀吉公の怒りを買い、蟄居閉門に処せられます。その最中、京都・大阪付近で未曾有の大地震が発生。清正公は当時謹慎中でありながら、自身の処罰を顧みず秀吉公への忠義をもって、いち早く助けに行ったことにより、秀吉公も心を動かされ、謹慎を解かれたといわれています。これは「地震加藤」と言われ、清正公の忠義深さを物語るエピソードとして、昔は歌舞伎狂言・落語などで繰り返し演じられました。

- 虎退治伝説
- 朝鮮出兵の時、清正公の軍勢は朝鮮のある山の麓に陣営を築いておりました。しかし突如として現れた巨大な虎に軍馬や家臣を失うこととなります。清正公は「将たる者、兵を守らねばならぬ」として、直ぐに策を講じ、最後には御自らの手で虎を退治し、兵の士気を大いに高めたと伝えられます。
この逸話は清正公の「武勇と胆力」を象徴する逸話として全国に広まり、語り継がれています。




